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無事帰国中の日本で・・姐ご?
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2020年2月、考え抜いた末に出かけたキューバの
ハバナでCOVID19ロックダウン。6か月滞在中、
約3か月半のホテル幽閉生活。写真はエア・フラン
スの特別便に搭乗するためのPCR検査2時間半待ち
「まだですかぁ?」。 ハバナのプラド通り。
それでも嬉しい外出だった。検査結果が分かるのは
空港で! 乗れたおかげで針の穴を通すような綱渡り
帰国に成功!

生い立ち
幼少時より父親の仕事の関係で18歳までに12か所で育つ。この体験から常にひとところにとどまらない習性を得るに至った。
引っ越しと旅の連続で脱皮し続け、常に新しい自分と新しい世界に出会い続ける。
写真家デビュー
★初めて行った海外
LAで、それまでも好きだったジャズ・ミュージシャンを撮る喜びを知る。帰国後すぐに
一眼レフカメラを手に入れ、あちこちのジャズライブハウスに出没。フィルム現像から
焼き付けまで独学で学ぶ。写真を始めて二か月後の1982年の大晦日、某音楽事務所の
社長から写真を見せて、と声がかかり100枚買ってくれるという快挙。そこからプロの
道に入る。
すぐに、パット・メセニー、キースジャレットなどのカレンダーを手掛けるようになる。高校生の頃からレコード店に行ってはジャズのLPレコードのジャケットを見る趣味が、
こんなところで実った。
★2年後の1984年、
西アフリカ、ナイジェリアの音楽家キング・サニー・アデの音に魅せられ、単身でナイジェリア行き。アデと同時に、当地の音楽家で社会の腐敗に立ち向かう闘志でもあった、フェラ・アニクラポ・クティと運命的な出会い。日本の写真家としては初めて、彼の故郷でその姿を写真におさめ始める。また、彼らの故郷がナイジェリア西部のヨルバの人々の地であったため、そこに息づく不思議な神々とも出会い、それが渡った先、ブラジルやキューバにつながる、
★大西洋を越えた壮大な旅が始まる。
在住中のキューバで突然の歌デビュー。自分でもびっくり。これは日本に一時帰国中の姿。2016年

ブラジルの写真集を出す頃。ヨルバ文化にどっぷり。
アフリカ~ブラジル。そして後に、キューバへも。
大西洋ヨルバ・トライアングルを踏破、そして出版。1997年

西アフリカをメインにしていたが、初の東アフリカ。
野生チンパンジーの取材は、当時あった自然の雑誌「Shinra」で。日本の霊長類研究所のあるマハレにて
約一か月、チンプを追い求めて過ごす。写真は地元の
人たちと。帰路ナイロビでマラリアを発症し、生死の
間を経験したことが、後の人生に大きく影響を及ぼす。つまり「より好きに生きる」こと! 1992年

初の写真展は「Smiling Africa」とタイトルした六本木
Axis ギャラリーにて。さまざまな経緯で名サックス奏者、
渡辺貞夫氏との合同写真展となった。ご縁は、その後
やはりアフリカのみならずブラジルのバイーアも愛する
氏と「南米大陸一万キロ」のテレビ番組でご一緒するに
まで至った。1991年
地球のフィールド 作品
★アフリカ それぞれの地をリピートしている。
ナイジェリア、ガーナ、セネガル、ガンビア、マリ、コート・ジボワール、
などの西アフリカ。ケニア、タンザニア、ジブチ、セイシェルなどの東アフリカ、
南アフリカ共和国。モロッコ、チュニジア、エジプト、ジブラルタルなど北アフリカ。
★中南米 ブラジル、キューバ、メキシコ、プエルト・リコ、など。
キューバには20年間通い、2015年~2018年までの3年半住む。
★アジア バリ島、ベトナム、インド、パキスタン、スリランカ、香港、中国黒竜江、
韓国、マレーシア、フィリピンのカオハガン島、など。
★南太平洋 ニューカレドニア、バヌアツ。
★ヨーロッパ イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、
スペイン、カナリア諸島、オランダ、ギリシャ、ポルトガル。
★カナダ横断 バンクーバー~プリンス・エドワード島。
★米国 NY と LA、そしてハワイ。
海外の他は、国内外の音楽や画家などのアーティストの撮影。雑誌やCD撮影など。
ホリ・ヒロシの一人文楽、富士山、なども。
踊りの世界では、日本を代表する玉三郎。また、スペインと日本の双方で新旧のアン
トニオ・ガデス舞踊団。ポスターやパンフレットも手がける。
世界各地の壁に自らの写真を飾るプロジェクトを始めていたが、コロナ禍のために
お休み中。
2020年2月、コロナ禍の真っ最中、ハバナに再度住み始めたため、先進医療を誇り
世界各地から援助要請の続くキューバの強力なコロナ対策もリポートした。
2020年秋に帰国。現在日本在住。
元、文京学院大学非常勤講師、日本写真芸術専門学校講師、ジャーナリスト専門学校
講師、キヤノン・フォト・サークル誌、学研キャパの写真の審査員。
2011年震災と原発事故の後、沖縄移住し人々の移住を助けるSARAを立ち上げ開始した
ため、これらはすべて終了。沖縄へ移住して1年間は、キヤノンのWeb上審査員をつと
めた。

ナイジェリアの当時の首都だったレゴス(現地発音)に
ある、フェラ・クティの作ったライブの場所「シュライン」にて。LPレコードにサイン中。ここまで乗り込んだ日本人
写真家として初、の姿。1984年
のちに彼の半生記「武器なき祈り」2005年刊として実を
結ぶ。

受賞歴
2005年、フェラ・クティの生涯を描いた本「武器なき祈り」で小田島雄二賞。
2014年、中南米他の各地の文化紹介に対する功績に対 して大同生命地域研究特別賞など。
歌デビュー
2015年、キューバのラウル・カストロ議長と、オバマ前米大統領との間で進められた
国交回復の激変期のキューバを取材するために、それまで20年近く通っていたキューバ
のハバナに3年半在住。 住み始めてすぐに歌を習ったところ、歌うようにすすめられ
て、自分でも驚きのハバナデビュー。 ホテル・ハバナ・リブレや、ホテル・ナシォナ
ルで歌う機会を得、また素晴らしいキューバのアーティストたちを師匠として修行。
2~3歳。神戸の塩屋の浜で右が私。沖を行く外国船を
見ながらいつか外国へ行きたいな! と。これが原点。
大きな石を「スイカだぁ!」。この頃から写真が好きだ
った。撮影は父親。押し入れ暗室作。
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